他人の本音や、モノゴトの本質を見抜ける目をつくるには?
- 2015/08/02
- 08:00
「私は人にだまされることが、時々あります。
体操や氣功、瞑想をやれば、相手の本音やモノゴトの本質を見抜く目が持てるのでしょうか?
渡る世間はウソつきだらけ」
「いきなり厳しいことを言うと、人からだまされるのは、自分も他人をだますような行為、生き方をしているからなんだよね」
「そのとおり。『だまし、だまされる』の世界・関係性と、波長が合ってしまっていると言うこと。
詐欺師はもっと上手の詐欺師にだまされる。
ある商店の人が、『やたら泥棒に入られる』とこぼしていたところ、平井謙二と言うヨガの先生(沖先生の高弟)から、
『あなたがお客さんから、不当に利益をむさぼるような商売の仕方をしているから、泥棒と縁が出来てしまうのである。
自覚が無くても、それはお客さんから泥棒しているのと同じことだ』
と指摘された。
その人は商売の仕方を『お客さんの利益第一』に改めたところ、だんだん泥棒と縁が遠くなり、店も繁盛するようになった」
「もとはこちら ってことか。泥棒はメッセージだったんだね。
相談者さんも悪氣は無くても、知らず知らずのうちに他人をだますような行為をして来ていないか、振り返ってみるといいかも?」
「その前提を踏まえたうえで、人がだまされる時、間違える時について、もう少し突っ込んで考えてみよう。
自分の顕在意識と潜在意識、身体がバラバラな時に、人は失敗する」
「契約でハンコを押す時は、眉間の印堂(いんどう)ってツボに触れて判断するといいって言うもんね。
固くなっているようなら、考え直した方がいい場合が多い。
顕在意識は判らなくても、潜在意識や身体は知っているってことだよね」
「潜在意識と顕在意識を一致させる体操はたくさんある。
左右の手で握手する体操もいい。右手の指を上に組む握手、左手の指を上に組む握手を交互にしてみて、感覚に差があるときほど、潜在意識と顕在意識が分離している。
36回繰り返すと、違和感がなくなってくる筈。それでもまだしっくり来ない日は、大事なことは決断しない方が無難」
「振り込め詐欺とかに引っ掛かる時も、頭の良し悪しと関係ないもんね。
ビックリした瞬間に自分が居なくなっちゃうから、だまされちゃう。
もう一人の自分=潜在意識が、慌てた自分を客観的に観ていれば、冷静になれるのに」
「実は体操は、もう一人の自分と仲良くする行為でもある。
基本のストレッチの段階から、『自分が自分の整体師になったつもりで、対話しながら体操しよう』と教わる」
「『お客さん、このくらいの刺激でいかがですか?』
『う~ん、もう少し弱くお願いします』
ってな具合に、自分と自分が対話しながら『適当』な刺激を探っていくだよね」
「体操が本当に上手になれば、身体の具合がよくなるだけではなく、仕事や対人関係での失敗も減っていく筈。
仕事で凡ミスするときは、必ず自分の潜在意識が関係ない方向を見ている。
その意味では、チンパンもまだまだ上手に体操が出来ていない」
古久澤先生のメルマガとブログには、潜在意識・身体と仲良くなるための知恵が満載。
「呼吸で人生をストレッチする!」
「夢をかなえる心のストレッチ」
ブログ「青い空と碧い海」
ブリージングスタッフ・ふぐじろう先生のメルマガとブログはこちらです。
メルマガ「小顔なんて簡単!」
ブログ「ふぐじろうのブリージングストレッチ日記」
「次に、氣功や瞑想をやり込むと、色んなモノが観えるようになるって言う人も居るよね。
霊とか他人の前世とか」
「そういう怪しげなモノを観ることを、ブリージング氣功では目指していない。」
「見えてもあんまり楽しくなさそうだもんね(笑)。
どうせ他人に見えないものが見えるなら、素敵なモノを見たいよね。
古久澤先生が時々お話されるけど、合氣道家の藤平光一(とうへいこういち)先生と、空手家の柳川昌弘(やながわまさひろ)先生のエピソードは素敵だもん」
「柳川先生が、藤平先生の指導風景を、たまたま目にする機会があった。
しばらく見学していた柳川先生は、立ち去る時に、指導中の藤平先生の背中に向かって、深く一礼した。
指導中の藤平先生の背中から、後光のようなオーラを感じたので、思わずお辞儀してしまった。
あとにも先にも、あんな体験は初めてだったと柳川先生は語っている」
「すると藤平先生がサッと振り返って、もっと深々とお辞儀を返してくれたんだよね。
見えてなかった筈なのに!って柳川先生はビックリしちゃう。
藤平先生は、氣で柳川先生の想いを感知したんだよね」
「柳川先生の驚嘆は、やがて深い感動に変わったと言う」
「普通は武道家が武道家を認めるのは、人をブッ飛ばしているような分かりやすい<強さ>を見た時のハズだけど、柳川先生は次元が違うよね。
『達人は達人を知る』ってとこだね。」
「藤平先生には、他にも色々なエピソードがある。
ベルギーの海外セミナーに招かれた時のこと。
ベルギーは曇りや風雨の日が多い。晴れた日は、太陽を見れた喜びで、人々はみなニコニコと機嫌がいい。
しかし、曇りや雨の日は、みんなユウウツな顔をしている。
セミナーで藤平先生は、
『肉眼の目で太陽は見えなくても、雲の上にはいつも太陽が出ている。
目の前の現象だけを見て、氣を左右されてはいけません。
もっと遠くを観るよう心がければ、いつでも心に太陽を持てます』
とスピーチし、観衆の深い感動を呼んだ。
翌日の新聞でも『藤平先生は、ベルギーに心の太陽を持ってきてくれた』と称賛された」
「霊や変なカルマが見えるよりも、こういう目を持った方が、自分もしあわせだし、周りをしあわせに出来るってことか。
宇多田ヒカルの『Time will tell』って曲にも、
『雨だって 雲の上へ飛び出せば Always blue sky
太陽だって 手でつかめるぐらい近くに感じられる』
ってフレーズがあるよね。
15歳そこそこで作った曲なのに、藤平先生と同じことを言ってるってのもスゴクない?」
「歌で多くの人の氣持ち、氣分を動かしているんだから、ミュージシャンも氣功師。
年齢と関係なく、氣のレベルで通じ合うものがあるのだろう」
「柳川先生の話に戻ると、もともと身体に色々な障害を抱え、目も弱視だったんだよね。
相手の突き蹴りがよく見えないから、入門当初の組手では殴られ、蹴られっぱなし。
見かねた師匠から、
『君は空手に向いてないから、やめなさい』
って言われたほどだったんだよね。
それでも達人になれちゃったの?」
「あとでかえってそれが幸いしたと、柳川先生は著書『空手の理』に書いている。
目に頼れないために、聴覚を磨くなど、あらゆる稽古法を工夫した。
その結果、相手の動きや氣配を察知する能力が次第に高まったという。
しまいには、相手の動きの起こりを見抜いて、全部カウンターが取れるようになった。
氣功的には、見よう!見よう!と思う目の使い方を陽目(ようもく)と言う」
「いまは陽目ばっかりだよね。パソコンが典型。一時期はやった目力(めぢから)も陽目。
でも氣功で良しとする目の使い方は、陰目(いんもく)の方。
見ようと思わなくても、ボンヤリ眺めていると、自然に目に全体が飛び込んでくるような見方。
陽目は短期的、部分的だけど、陰目は長期的に全体を見通せるもんね」
「宮本武蔵も、『見の目弱く、観の目強し』と言っている。
見の目とは一方向、表面しか見ない陽目。
観の目は様々な方向から眺め、かつモノゴトの奥までを見通す」
「陰目、観の目を身に着けるには、スワイショウがいいんだよね。
肩幅の足幅で立って(足先は並行)、垂らした両手をブラブラと前後に振り続ける。腕を上げる高さは鳩尾まで。
目は出来るだけまっすぐ、遠くを見続けるんだよね。
イメージ出来るんなら、何キロも先の風景を見通すつもりでやるといいよね。
それが自然に陰目の陽性になっちゃう」
「スウイショウは動く瞑想。脳は繰り返しの動きに弱いから、変性意識モードに入ってしまう。
本当に上達していくと、自分が二人に分裂して、スワイショウをしている自分を、もう一人の自分=潜在意識が見ているような状態になるという。
柳川先生じゃないけれど、視力が弱い人は、その分他の感覚が発達して『観の目』的なことが出来る場合が多いらしい。
ある人は、失明してから、かえって転ばなくなったという」
「どうして?」
「目に頼れない分、足裏をセンサーのように使って、地形の凸凹や障害物をさぐる能力が高まった結果。
これは氣功や武道の足使いにも通じる。
俳優・勝新太郎は、座頭市(ざとういち)という、盲目の剣客を演じるに当たって、大変悩んだと言う」
「だって盲目の剣士なんて、どう演じたらリアリティが出せるか、わからないよね」
「座頭市は居合(いあい)を使う設定。居合は鞘から剣を抜いて構えることはしない」
「基本的に自分からは仕掛けない、守りの剣だからだよね。
相手が切りかかって来るときに、やむを得ず刀を抜いて、一刀のもとに切り伏せる剣術。
座頭市にふさわしいかも」
「勝新太郎は、合氣道も自分からは攻撃しない守りの武道なので、居合に通じるものがあるのではないか?と考えた。
そこで合氣道創始者の、植芝盛平(うえしばもりへい)先生を、自宅に招いて教えを乞うた」
「植芝先生って、藤平先生のそのまた先生だよね。
座頭市に関わっていたとは、初耳だよ」
「記録に残っているので確かな話。
『座頭市と言う盲目の剣豪に、リアリティを持たせるために、ひとつ稽古をつけて頂きたい』
と頭を下げる勝新太郎。
『勝どの、迫る相手の音を見、風を感じて動くことじゃ。
さすればお主の演じる座頭市とやらに、命が吹き込まれることじゃろう』
と植芝先生は答えたらしい。
実際に植芝先生は、暗闇の中で日本刀で立ち会う稽古をしていたことを、多くの弟子が証言している。
それでも自分も斬られず、弟子にもケガをさせなかったので、氣・観の目で察知していたと思われる。
植芝先生の教えで勝新太郎は忽然と悟り、盲目の剣豪・座頭市が完成した。
座頭市は最初映画シリーズだったけど、やがてTVシリーズもつくられた。
資料によれば、TVシリーズの最終回では、座頭市の目が突然見えるようになったシーンが出てくるらしい(DVD化されていません)。
しかし、目に意識を奪われた途端に、迫ってくる敵の音が聞こえなくなった。風も感じられなくなった。
更に目に映る刀や、敵の姿に座頭市はすさまじい恐怖を感じた。
座頭市はなすすべもなく、ナマスのように切り刻まれてしまう」
「え~っ!座頭市は死んじゃうの?」
「実はこのエピソードは夢オチだった(笑)。
しかし、このエピソードは、見の目と観の目の関係について、ヒントを与えてくれる。
見の目に捉われた瞬間に、訓練によって獲得していた観の目の感覚が失われてしまうということ」
「現実に目が見えなかった人が、手術で視力を取り戻したとき、なかなかモノが上手く見えなくて苦しむ場合もあるって、きいたことがあるよ。
動くものが上手く見えないとか、人の顔の区別がつきにくいとか・・・・・」
「ものを見るということは、目ん玉の作業だけでなく、脳と連動しているからね。
赤ちゃんの頃から、毎日色んなものを見続けているからこそ、『見の目』的な回路が形成されていく。
いっぽう目が不自由な人は、他の感覚を総動員して『観の目』的な回路をつくっている。
そこにいきなり目が見えるようになると、見の目的な回路はまだ出来ていないところに、いままでの観の目的な回路も上手く使えなくなるので、そのギャップでうつ状態になる人さえ居るようだ」
「見の目、観の目の話は、脳科学とさえ連動して行くってことか」
「でも、こういうことは、仏教や神道などでは昔から分かっていたらしい。
植芝先生も師事した、大本教の教祖・出口王仁三郎は、
『耳で見て 目で聞き 鼻でモノ食うて 口で嗅がねば 神は判らず』
という歌を遺している」
「確かに感覚って、そんなに厳密に分けられるもんじゃないもんね。
ホラー映画なんかは、怖い音をきいて、まだ表れていない幽霊や怪物の姿を、観客は想像するし=耳で見る。
観音様=音を観る ってのも、意味深じゃない?」
「闇と言う字も、『門』の中に『音』という字が入っている。
素直に考えたら、『光』という字が入った方が意味的に正しい筈なのに」
「闇は音が閉じ込められているって象徴かな?
確かに目を閉じて、内観したり瞑想していると、周囲の音が自分の中によく入ってくるのが分かるもん」
「一理ある。
瞑想も観の目を養うことに役立つようだ。
ヨガの第一人者、成瀬正春(なるせまさはる)先生も、瞑想をやり込むと観の目が身に着くという意味のことを言っている」
「今日は本当に色んな先生の話が出てくるね(笑)。
読者のみなさん、混乱しないでくださいね~」
「成瀬先生は、人がケンカするのは、目の前の一方向の見方しかできないから、ぶつかり合うためだと説く。
瞑想すると、もっと高く広い視点=第三者的な視点から見られるので、争うのがバカバカしくなると言う。
イジメやパワハラをする人も、その人の中に、そうせざるを得ない弱さや辛さがある。
その部分に想いを馳せられるようになれば、相手にその想いが伝わるので、だんだんイジワル出来なくなる」
「正論だけど、なかなか現実には難しいよね。
特にコミュニケーションの本やセミナーで得た知識丸写しのセリフで、『分かるよ~』とか、したり顔の笑顔で言われると、かえってムカツクよ(笑)」
「それは、その人の言葉に全然リアリティ・身体感覚が伴っていないから。つまり、そういう身体になっていないということ。
組手をやってみると、明確に検証できる。
正座した相手に上から両手の手首をつかんで抑えてもらう。その状態で腕を上げようとする
腕の力だけで上げようとすると、ぶつかり合う。これが見の目、一方向だけの見方に捉われている状態=対立。

次に腕の力を抜き、背骨をしならせながらお辞儀する。
腕は背骨と連動して、直角に肘を曲げて前方に回転させる。

すると手首をつかんでいる相手の重心が上げられて、勝手に後ろに倒れてしまう。
余り深くお辞儀すると、転んだ相手の膝とオデコがぶつかるので注意」

「力の出所が、直接触れ合っている腕じゃなくて、遠くの背骨だから、相手は抵抗出来ずに飲み込まれちゃうんだよね。
目の前の対立に捉われずに、パッと切り替える訳だね。いわゆる観の目的なカラダの使い方」
「この動きを一人でやっている写真が下。





立位に戻ったら同じ動きを繰り返す。椅子に座ってやっても可。
背骨が整って健康になるし、肩肘張ってガンバル癖も消えて行く」
「こういう身体を練って行けば、観の目的な見方・振る舞いが自然に身に着くから、対人関係や生き方も自然に変わるってこと?」
「そのとおり。詳しくは虎徹君に任せます」
(虎徹のワン!ポイントコメント)
ブリージングスタッフ・ふぐじろう先生のペットの虎徹です~。

写真は瞑想中のボクです。決して寝ている訳ではありません。
では、チンパン君から振られたお題についてコメントしましょう。
ある噺家が、酒宴で酒癖の悪い関取と同席したそうです。
その関取は、『ひとつ杯をくれてやろう』と言って、足指でお銚子をつかんで持ち上げました。
超無礼な態度ですね~。その噺家はどう対応したと想います?
なんとニッコリ笑って、こう答えたそうです。
『ハハア、それがお相撲取りのお酌の流儀でございますか。
それでは、私は噺家の流儀で杯をいただくことにしましょう』
おもむろに姿勢を正した噺家は、『本日はお日柄もよろしく』から始まり、延々と口上を述べ始めたそうです。
何しろ話のプロだから、5分たっても10分たっても終わりません。
お銚子を片足で持ち上げっぱなしの関取の顔は次第に真っ赤に紅潮し、とうとう限界に達して杯を取り落しました。
しばらくは足が痺れて立ち上がれなかったそうです。
恥をかかせてやろうと思ったら、自分が恥をかいちゃったってことですね~。
その噺家の対応は、まさしく観の目的なもの。自分の置かれた状況を俯瞰(ふかん)して把握しています。
腕力じゃ勝負にならないから、別次元の勝負(?)に切り替えた訳ですよ。
とんちの一休さんみたい(笑)。
それだけ発想が自由だということと、動じない胆力があったんですね~。
この噺家を見て、強いと想う人は居ないかも知れないけど、本当の強さとは、こういう『しなやかさ』の中にあるのかも知れません。
こういう眼力と強さこそを身に着けたいものですね~。
つづく
体操や氣功、瞑想をやれば、相手の本音やモノゴトの本質を見抜く目が持てるのでしょうか?
渡る世間はウソつきだらけ」
「いきなり厳しいことを言うと、人からだまされるのは、自分も他人をだますような行為、生き方をしているからなんだよね」
「そのとおり。『だまし、だまされる』の世界・関係性と、波長が合ってしまっていると言うこと。
詐欺師はもっと上手の詐欺師にだまされる。
ある商店の人が、『やたら泥棒に入られる』とこぼしていたところ、平井謙二と言うヨガの先生(沖先生の高弟)から、
『あなたがお客さんから、不当に利益をむさぼるような商売の仕方をしているから、泥棒と縁が出来てしまうのである。
自覚が無くても、それはお客さんから泥棒しているのと同じことだ』
と指摘された。
その人は商売の仕方を『お客さんの利益第一』に改めたところ、だんだん泥棒と縁が遠くなり、店も繁盛するようになった」
「もとはこちら ってことか。泥棒はメッセージだったんだね。
相談者さんも悪氣は無くても、知らず知らずのうちに他人をだますような行為をして来ていないか、振り返ってみるといいかも?」
「その前提を踏まえたうえで、人がだまされる時、間違える時について、もう少し突っ込んで考えてみよう。
自分の顕在意識と潜在意識、身体がバラバラな時に、人は失敗する」
「契約でハンコを押す時は、眉間の印堂(いんどう)ってツボに触れて判断するといいって言うもんね。
固くなっているようなら、考え直した方がいい場合が多い。
顕在意識は判らなくても、潜在意識や身体は知っているってことだよね」
「潜在意識と顕在意識を一致させる体操はたくさんある。
左右の手で握手する体操もいい。右手の指を上に組む握手、左手の指を上に組む握手を交互にしてみて、感覚に差があるときほど、潜在意識と顕在意識が分離している。
36回繰り返すと、違和感がなくなってくる筈。それでもまだしっくり来ない日は、大事なことは決断しない方が無難」
「振り込め詐欺とかに引っ掛かる時も、頭の良し悪しと関係ないもんね。
ビックリした瞬間に自分が居なくなっちゃうから、だまされちゃう。
もう一人の自分=潜在意識が、慌てた自分を客観的に観ていれば、冷静になれるのに」
「実は体操は、もう一人の自分と仲良くする行為でもある。
基本のストレッチの段階から、『自分が自分の整体師になったつもりで、対話しながら体操しよう』と教わる」
「『お客さん、このくらいの刺激でいかがですか?』
『う~ん、もう少し弱くお願いします』
ってな具合に、自分と自分が対話しながら『適当』な刺激を探っていくだよね」
「体操が本当に上手になれば、身体の具合がよくなるだけではなく、仕事や対人関係での失敗も減っていく筈。
仕事で凡ミスするときは、必ず自分の潜在意識が関係ない方向を見ている。
その意味では、チンパンもまだまだ上手に体操が出来ていない」
古久澤先生のメルマガとブログには、潜在意識・身体と仲良くなるための知恵が満載。
「呼吸で人生をストレッチする!」
「夢をかなえる心のストレッチ」
ブログ「青い空と碧い海」
ブリージングスタッフ・ふぐじろう先生のメルマガとブログはこちらです。
メルマガ「小顔なんて簡単!」
ブログ「ふぐじろうのブリージングストレッチ日記」
「次に、氣功や瞑想をやり込むと、色んなモノが観えるようになるって言う人も居るよね。
霊とか他人の前世とか」
「そういう怪しげなモノを観ることを、ブリージング氣功では目指していない。」
「見えてもあんまり楽しくなさそうだもんね(笑)。
どうせ他人に見えないものが見えるなら、素敵なモノを見たいよね。
古久澤先生が時々お話されるけど、合氣道家の藤平光一(とうへいこういち)先生と、空手家の柳川昌弘(やながわまさひろ)先生のエピソードは素敵だもん」
「柳川先生が、藤平先生の指導風景を、たまたま目にする機会があった。
しばらく見学していた柳川先生は、立ち去る時に、指導中の藤平先生の背中に向かって、深く一礼した。
指導中の藤平先生の背中から、後光のようなオーラを感じたので、思わずお辞儀してしまった。
あとにも先にも、あんな体験は初めてだったと柳川先生は語っている」
「すると藤平先生がサッと振り返って、もっと深々とお辞儀を返してくれたんだよね。
見えてなかった筈なのに!って柳川先生はビックリしちゃう。
藤平先生は、氣で柳川先生の想いを感知したんだよね」
「柳川先生の驚嘆は、やがて深い感動に変わったと言う」
「普通は武道家が武道家を認めるのは、人をブッ飛ばしているような分かりやすい<強さ>を見た時のハズだけど、柳川先生は次元が違うよね。
『達人は達人を知る』ってとこだね。」
「藤平先生には、他にも色々なエピソードがある。
ベルギーの海外セミナーに招かれた時のこと。
ベルギーは曇りや風雨の日が多い。晴れた日は、太陽を見れた喜びで、人々はみなニコニコと機嫌がいい。
しかし、曇りや雨の日は、みんなユウウツな顔をしている。
セミナーで藤平先生は、
『肉眼の目で太陽は見えなくても、雲の上にはいつも太陽が出ている。
目の前の現象だけを見て、氣を左右されてはいけません。
もっと遠くを観るよう心がければ、いつでも心に太陽を持てます』
とスピーチし、観衆の深い感動を呼んだ。
翌日の新聞でも『藤平先生は、ベルギーに心の太陽を持ってきてくれた』と称賛された」
「霊や変なカルマが見えるよりも、こういう目を持った方が、自分もしあわせだし、周りをしあわせに出来るってことか。
宇多田ヒカルの『Time will tell』って曲にも、
『雨だって 雲の上へ飛び出せば Always blue sky
太陽だって 手でつかめるぐらい近くに感じられる』
ってフレーズがあるよね。
15歳そこそこで作った曲なのに、藤平先生と同じことを言ってるってのもスゴクない?」
「歌で多くの人の氣持ち、氣分を動かしているんだから、ミュージシャンも氣功師。
年齢と関係なく、氣のレベルで通じ合うものがあるのだろう」
「柳川先生の話に戻ると、もともと身体に色々な障害を抱え、目も弱視だったんだよね。
相手の突き蹴りがよく見えないから、入門当初の組手では殴られ、蹴られっぱなし。
見かねた師匠から、
『君は空手に向いてないから、やめなさい』
って言われたほどだったんだよね。
それでも達人になれちゃったの?」
「あとでかえってそれが幸いしたと、柳川先生は著書『空手の理』に書いている。
目に頼れないために、聴覚を磨くなど、あらゆる稽古法を工夫した。
その結果、相手の動きや氣配を察知する能力が次第に高まったという。
しまいには、相手の動きの起こりを見抜いて、全部カウンターが取れるようになった。
氣功的には、見よう!見よう!と思う目の使い方を陽目(ようもく)と言う」
「いまは陽目ばっかりだよね。パソコンが典型。一時期はやった目力(めぢから)も陽目。
でも氣功で良しとする目の使い方は、陰目(いんもく)の方。
見ようと思わなくても、ボンヤリ眺めていると、自然に目に全体が飛び込んでくるような見方。
陽目は短期的、部分的だけど、陰目は長期的に全体を見通せるもんね」
「宮本武蔵も、『見の目弱く、観の目強し』と言っている。
見の目とは一方向、表面しか見ない陽目。
観の目は様々な方向から眺め、かつモノゴトの奥までを見通す」
「陰目、観の目を身に着けるには、スワイショウがいいんだよね。
肩幅の足幅で立って(足先は並行)、垂らした両手をブラブラと前後に振り続ける。腕を上げる高さは鳩尾まで。
目は出来るだけまっすぐ、遠くを見続けるんだよね。
イメージ出来るんなら、何キロも先の風景を見通すつもりでやるといいよね。
それが自然に陰目の陽性になっちゃう」
「スウイショウは動く瞑想。脳は繰り返しの動きに弱いから、変性意識モードに入ってしまう。
本当に上達していくと、自分が二人に分裂して、スワイショウをしている自分を、もう一人の自分=潜在意識が見ているような状態になるという。
柳川先生じゃないけれど、視力が弱い人は、その分他の感覚が発達して『観の目』的なことが出来る場合が多いらしい。
ある人は、失明してから、かえって転ばなくなったという」
「どうして?」
「目に頼れない分、足裏をセンサーのように使って、地形の凸凹や障害物をさぐる能力が高まった結果。
これは氣功や武道の足使いにも通じる。
俳優・勝新太郎は、座頭市(ざとういち)という、盲目の剣客を演じるに当たって、大変悩んだと言う」
「だって盲目の剣士なんて、どう演じたらリアリティが出せるか、わからないよね」
「座頭市は居合(いあい)を使う設定。居合は鞘から剣を抜いて構えることはしない」
「基本的に自分からは仕掛けない、守りの剣だからだよね。
相手が切りかかって来るときに、やむを得ず刀を抜いて、一刀のもとに切り伏せる剣術。
座頭市にふさわしいかも」
「勝新太郎は、合氣道も自分からは攻撃しない守りの武道なので、居合に通じるものがあるのではないか?と考えた。
そこで合氣道創始者の、植芝盛平(うえしばもりへい)先生を、自宅に招いて教えを乞うた」
「植芝先生って、藤平先生のそのまた先生だよね。
座頭市に関わっていたとは、初耳だよ」
「記録に残っているので確かな話。
『座頭市と言う盲目の剣豪に、リアリティを持たせるために、ひとつ稽古をつけて頂きたい』
と頭を下げる勝新太郎。
『勝どの、迫る相手の音を見、風を感じて動くことじゃ。
さすればお主の演じる座頭市とやらに、命が吹き込まれることじゃろう』
と植芝先生は答えたらしい。
実際に植芝先生は、暗闇の中で日本刀で立ち会う稽古をしていたことを、多くの弟子が証言している。
それでも自分も斬られず、弟子にもケガをさせなかったので、氣・観の目で察知していたと思われる。
植芝先生の教えで勝新太郎は忽然と悟り、盲目の剣豪・座頭市が完成した。
座頭市は最初映画シリーズだったけど、やがてTVシリーズもつくられた。
資料によれば、TVシリーズの最終回では、座頭市の目が突然見えるようになったシーンが出てくるらしい(DVD化されていません)。
しかし、目に意識を奪われた途端に、迫ってくる敵の音が聞こえなくなった。風も感じられなくなった。
更に目に映る刀や、敵の姿に座頭市はすさまじい恐怖を感じた。
座頭市はなすすべもなく、ナマスのように切り刻まれてしまう」
「え~っ!座頭市は死んじゃうの?」
「実はこのエピソードは夢オチだった(笑)。
しかし、このエピソードは、見の目と観の目の関係について、ヒントを与えてくれる。
見の目に捉われた瞬間に、訓練によって獲得していた観の目の感覚が失われてしまうということ」
「現実に目が見えなかった人が、手術で視力を取り戻したとき、なかなかモノが上手く見えなくて苦しむ場合もあるって、きいたことがあるよ。
動くものが上手く見えないとか、人の顔の区別がつきにくいとか・・・・・」
「ものを見るということは、目ん玉の作業だけでなく、脳と連動しているからね。
赤ちゃんの頃から、毎日色んなものを見続けているからこそ、『見の目』的な回路が形成されていく。
いっぽう目が不自由な人は、他の感覚を総動員して『観の目』的な回路をつくっている。
そこにいきなり目が見えるようになると、見の目的な回路はまだ出来ていないところに、いままでの観の目的な回路も上手く使えなくなるので、そのギャップでうつ状態になる人さえ居るようだ」
「見の目、観の目の話は、脳科学とさえ連動して行くってことか」
「でも、こういうことは、仏教や神道などでは昔から分かっていたらしい。
植芝先生も師事した、大本教の教祖・出口王仁三郎は、
『耳で見て 目で聞き 鼻でモノ食うて 口で嗅がねば 神は判らず』
という歌を遺している」
「確かに感覚って、そんなに厳密に分けられるもんじゃないもんね。
ホラー映画なんかは、怖い音をきいて、まだ表れていない幽霊や怪物の姿を、観客は想像するし=耳で見る。
観音様=音を観る ってのも、意味深じゃない?」
「闇と言う字も、『門』の中に『音』という字が入っている。
素直に考えたら、『光』という字が入った方が意味的に正しい筈なのに」
「闇は音が閉じ込められているって象徴かな?
確かに目を閉じて、内観したり瞑想していると、周囲の音が自分の中によく入ってくるのが分かるもん」
「一理ある。
瞑想も観の目を養うことに役立つようだ。
ヨガの第一人者、成瀬正春(なるせまさはる)先生も、瞑想をやり込むと観の目が身に着くという意味のことを言っている」
「今日は本当に色んな先生の話が出てくるね(笑)。
読者のみなさん、混乱しないでくださいね~」
「成瀬先生は、人がケンカするのは、目の前の一方向の見方しかできないから、ぶつかり合うためだと説く。
瞑想すると、もっと高く広い視点=第三者的な視点から見られるので、争うのがバカバカしくなると言う。
イジメやパワハラをする人も、その人の中に、そうせざるを得ない弱さや辛さがある。
その部分に想いを馳せられるようになれば、相手にその想いが伝わるので、だんだんイジワル出来なくなる」
「正論だけど、なかなか現実には難しいよね。
特にコミュニケーションの本やセミナーで得た知識丸写しのセリフで、『分かるよ~』とか、したり顔の笑顔で言われると、かえってムカツクよ(笑)」
「それは、その人の言葉に全然リアリティ・身体感覚が伴っていないから。つまり、そういう身体になっていないということ。
組手をやってみると、明確に検証できる。
正座した相手に上から両手の手首をつかんで抑えてもらう。その状態で腕を上げようとする
腕の力だけで上げようとすると、ぶつかり合う。これが見の目、一方向だけの見方に捉われている状態=対立。

次に腕の力を抜き、背骨をしならせながらお辞儀する。
腕は背骨と連動して、直角に肘を曲げて前方に回転させる。

すると手首をつかんでいる相手の重心が上げられて、勝手に後ろに倒れてしまう。
余り深くお辞儀すると、転んだ相手の膝とオデコがぶつかるので注意」

「力の出所が、直接触れ合っている腕じゃなくて、遠くの背骨だから、相手は抵抗出来ずに飲み込まれちゃうんだよね。
目の前の対立に捉われずに、パッと切り替える訳だね。いわゆる観の目的なカラダの使い方」
「この動きを一人でやっている写真が下。





立位に戻ったら同じ動きを繰り返す。椅子に座ってやっても可。
背骨が整って健康になるし、肩肘張ってガンバル癖も消えて行く」
「こういう身体を練って行けば、観の目的な見方・振る舞いが自然に身に着くから、対人関係や生き方も自然に変わるってこと?」
「そのとおり。詳しくは虎徹君に任せます」
(虎徹のワン!ポイントコメント)
ブリージングスタッフ・ふぐじろう先生のペットの虎徹です~。

写真は瞑想中のボクです。決して寝ている訳ではありません。
では、チンパン君から振られたお題についてコメントしましょう。
ある噺家が、酒宴で酒癖の悪い関取と同席したそうです。
その関取は、『ひとつ杯をくれてやろう』と言って、足指でお銚子をつかんで持ち上げました。
超無礼な態度ですね~。その噺家はどう対応したと想います?
なんとニッコリ笑って、こう答えたそうです。
『ハハア、それがお相撲取りのお酌の流儀でございますか。
それでは、私は噺家の流儀で杯をいただくことにしましょう』
おもむろに姿勢を正した噺家は、『本日はお日柄もよろしく』から始まり、延々と口上を述べ始めたそうです。
何しろ話のプロだから、5分たっても10分たっても終わりません。
お銚子を片足で持ち上げっぱなしの関取の顔は次第に真っ赤に紅潮し、とうとう限界に達して杯を取り落しました。
しばらくは足が痺れて立ち上がれなかったそうです。
恥をかかせてやろうと思ったら、自分が恥をかいちゃったってことですね~。
その噺家の対応は、まさしく観の目的なもの。自分の置かれた状況を俯瞰(ふかん)して把握しています。
腕力じゃ勝負にならないから、別次元の勝負(?)に切り替えた訳ですよ。
とんちの一休さんみたい(笑)。
それだけ発想が自由だということと、動じない胆力があったんですね~。
この噺家を見て、強いと想う人は居ないかも知れないけど、本当の強さとは、こういう『しなやかさ』の中にあるのかも知れません。
こういう眼力と強さこそを身に着けたいものですね~。
つづく
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